意識的調整とこどもの学校

意識的調整は、FMアレクサンダー氏が声を失ったことがきっかけで、人間有機体に共通する普遍的な原理の発見とそれに基づく調査を進めることによって、自分自身を意識的に調整する手法です。

彼は大人になって心身の問題に出会いましたが、生まれた頃もしくは幼い頃から無意識に自分を使っているやり方に何らかの問題があった場合、学校や社会生活がうまくいかなかったり、最新の教育法や知識もうまく受け入れることができまいかもしれません。

新しい知識を学ぶことより前に、自己の使い方をもとに実体験しながら学ぶことの方が先であり、そのように学んでいくことで、本人の潜在能力はとてつもなく大きな能力として開花することでしょう。

下記、「自己の使い方」付録の引用です。ご参考になさってください。

付録・リトルスクールと教師養成学校について

FMアレクサンダー著/横江大樹訳

本書の序文でお知らせしたように、以下に公開書簡をのせ、(アレクサンダーテクニーク)教師養成学校に関連しながら同時に、参考のためにリトルスクールでの実践を紹介しよう。読者にも気がつく方のいらっしゃることは言うまでもなく、望ましい出来事が起きるように、実体験を得ていくやり方で自己を使い、それが新しい不慣れなやり方になる際には、行為をしている実際の動作が慣れ親しんだものであれ不慣れなのもであれ、必要な時間をかけることが「契約の最重要事項」になる。お子達で通常30分レッスンにこられた後に外部の学校に通い1日の残り時間に観察をしなくなる、つまり、日常生活で当ワークを継続して用いるかどうかというところに観点を置かなくなる、するとその場合に皆さんは、せっかくの機会を有効に活用していないと実体験を通し確認され、だから私は決意し、もっとずっと良い結果を育むために、お子達が観察をもらい手助けを受け、教師は(アレクサンダーテクニークの)ワークを続け、そうやって学校生活を送れるようにすすめることにした。

リトルスクールというが、発端は実は単純なことからで、ロンドンのアシュレイプレイス16番地において以下のように始まった。あれは1924年のこと、ある少年がインドから自宅に送還されてきて、もちろんこの子は聡明な子であったけれども、非常に「神経質」ですぐに興奮しすぎておかしくなると、両親も気付き、このままではとても普通の学校生活を送れそうにないという事情で、こちらのレッスンに来られた。この子がこちらに到着したとき、私にもすぐわかり、彼のやる自己の使い方はまったく奇妙で最悪であったから、いったん、個人レッスンに加えて一日中ここに居なさいと決め、そうやって手助けを受けて、新しい自己の使い方が働くようにやりながら、読み書きや他の授業の学習を続けなさい、という手はずになった。それを知ったほかの親御さんで、そのときにご子息が当方で個人レッスンを受けている最中の人々からも同様に、援助してほしいと頼まれ、そんなことでリトルスクールを開始する次第になった。それからというもの、お子達や若者たち、つまり幼児からティーンに至るまで、まず個人レッスンを受けてそれから教室に参加してもらい、実体験を獲得するために原理と手順を応用しながら様々な動作に及ぼすやり方を、人にもよるが数週間から何学期にわたってやってきている。自然の成り行きとして、この学校の授業では教室の各個人のやる作業内容がそれぞれ異なり、年齢や個別の希望に沿って行われているが、しかしながら、全ての基礎に特別な原理を本質的に用いた当テクニークがあるからには、すなわち、結果そのものは、彼らが作業していることであっても大して重要ではなく、比較すると、もっとやり方を大切にしながら行く方向へ自己を使い、そうやって結果を得るように進めていく。

こうして発展してきた当ワークで、私は幸運にも協力者に恵まれ、実弟のアルバート=レデン=アレクサンダー氏、エセル=ウエブ女史、アイリーン=タスカー芸術学修士に助けられ、そこへ後になって、E=A=M=ゴールディー女史が加わった。タスカーさんは広範囲に様々な教授法に長けており、個人授業も寄宿授業でもすでに経験豊富であり、私のテクニークを習得する前から学んでいらした。彼女の計画に基づいて指導が行われ、ワークがこの学校へ導入され、そこへ1929年1月からゴールディー女史が参入するなど、お子達がより良い教育を受けられるような援助が続いていて、今では職員全員が個人レッスンをするまでに至った。(・・・以下省略)「自己の使い方」(P183-184 引用)